2015年12月3日木曜日

言語におけるグローバル化論???


 どうもこんにちは、道化師です。さて本日は、言語について見ていきたいと思います。

 よく道化師のことを誤解されている人がいるので、先にあらかじめ私のスタンスをお話しておきます。

 よく、道化師(松井塾塾長)のことを英語嫌いの人だとか、英語を非常に大切に思っているとか、グローバルスタンダード推進しているとか、日本大好き人間とか様々な人が様々な事を言っていますが、正直「言語なんてどうなろうがどうでもいい」という人です。

 例えば、もし、明日から大学受験で出される問題が、中国語になれば、中国語を教えますし、フランス語になればフランス語を教えます。

 自分の商売する場所が、中国なら、中国語を話しますし、タイならタイ語、ベトナムならベトナム語を話します。私が、きちんとした日本語を使えというのは、決して日本語が美しいと思っているからではなく、大学入試の点数で減点されないためです。

 という状況ですね。

 そこで、本日は、かなり違った味方の読解文章を見ていきましょう。

 世界が一つの言語で話しをされることは良くないという論法です。

 「近年、人文科学系や語学系の学科に多く出題されるパターンの一つですね。」

 まず、基本的に言語というのは、その国および国民のアイデンティティを表す道具の一つである。

 たとえそれが、少数の部族の間でしか使われないような、汎用性のない言語であったとしても、その言語は非常に有意義な意味を持つものであるということである。

 よって、英語・中国語などの広範囲で使える言語を世界標準とすることに関しては、反対であるという考え方。

 ところが、ここからの結論はおおよそにわけてパターンが分かれる。

 1,世界的に少数の言語を保存しておくよう努力するべきである。

 2,自然の成り行きに任せるべきである。

 3,そういう状況であったとしてもグローバル化している現代に合わせるためにも、ある程度の共通言語の重要性については考えるべきである。

 というような結論に持ってくる場合が多いでしょうね。

 1はかなりやっかいである。この部分は、世界的に見て少数言語の保存しておくべきであるというのが、論理的な展開をしてくるというよりも感情的な言い回しを使うことが非常に多いからである。

 例えば、ナチスドイツの少数民族迫害の話を無理やりこじつけてくるなどのケースが有り、話が分散してしまうケースが非常に多いですね。

 というわけで結論。

 「たとえほとんどの人が使わないような少数言語であったとしても大事だから保存しておけ。」

 道化師「私の英語力は、さほど高くはないですが、何を言っているのかは、わかるレベルですが、あえていいますが、早ければ五年以内遅くとも一〇年以内には、google翻訳の水準は私のレベルを超えると思っています。したがって、これからの大学生は、英語を勉強しなさいと言う前に、google翻訳の使い方を学びなさいというべきなのかもしれません。」

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