2015年11月10日火曜日

道化師の日本史(奈良時代2)


 どうもこんにちは道化師です。

さて本日は、道化師の日本史奈良時代2誰が権力を握るのかの後編へと進んでまいりたいと思います。

 藤原不比等の子どもたちが、死んでしまってからどうなったのかというと・・・

 橘諸兄(たちばなのもろえ)684年ー757年

 橘諸兄は、政権中枢にいることになりますが、ここに、吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぼう)などが、政権の中心を握っていきます。

 しかし、ここで有事が発生します。

 740年藤原広嗣の乱が起こります。しかしこれは、橘諸兄がなんとかすることになります。

 このようにあちこちで内乱が起こったために、聖武天皇は、大仏造営をしまくったのかもしれませんね。

 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)706年ー764年

 藤原仲麻呂は、橘諸兄を引退するために画策します。

 そしてそれが見事成功。

 ところが、権力闘争で敗れた、橘諸兄の一族の一人である、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)に反乱を起こされてしまいます。

 757年橘奈良麻呂の変を起こされてしまいます。

 これは鎮圧します。また、孝謙天皇の皇位を譲らさせ、自らは恵美押勝(えみのおしかつ)と名前を変えていきますが、ここで、孝謙天皇(こうけんてんのう)と道鏡(どうきょう)に反発されてしまいます。

 そこで、自らの権力をもう一度取り戻そうとして、764年恵美押勝の乱を起こしますが、一族もろとも滅亡させられてしまいます。

 そして、最後に残ったのが、道鏡(どうきょう)というお坊さん

 道鏡と孝謙天皇名前を改め称徳天皇(しょうとくてんのう)の政治になります。

 しかし、この道鏡権力に対する欲望が半端じゃない。自分が、天皇に取って代わろうとします。それもあろうことか、仏様のご加護があったという嘘までついて天皇となろうとする。

 当然この計画は、失敗に終わります。これが、宇佐八幡信託事件(うさはちまんしんたくじけん)

 これを、阻止したのが和気清麻呂(わけのきよまろ)

 そして、最後に、藤原百川(ふじわらのももかわ)によって、光仁天皇(こうにんてんのう)が擁立されて終わります。

 さてそれでは、もう一度権力の変遷を見ていきましょう。

 藤原不比等からの長屋王からの藤原不比等の子どもたちからの橘諸兄からの藤原仲麻呂(恵美押勝)からの道鏡からの藤原百川という順番になります。

 道化師「権力争いとは何時の時代でも、起こるものですね。自分が権力を手にしてすべてを支配したいみんなそんなふうに思うのかもしれませんね。まさに、権力とは麻薬ですね。」

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