2017年1月25日水曜日

大学受験の国語(比べては行けないものを比べてみる???)

どうもこんばんは、道化師です。

さて、本日のテーマは、こちら。

大学受験では、比べては、いけないものを比べてみる。

比較の出来無いものを無理やり比べて評価するということです。

道化師「はっきりいいますが、大学受験ではこの手法めちゃくちゃあります。めちゃくちゃあります。この方法、現実世界では絶対にやってはいけません。」

例えば、こういう例が該当します。

水が飲みたくて飲みたくて死にそうな人に。

今あなたは、水が飲みたいですか?それとも遊園地に行きたいですか?

と聞いたとします。

水が飲みたいと答えたとします。

水>遊園地。したがって、遊園地よりも水のほうが大事。

はい。間違いということになります。

ところが、これをいろいろと条件を変えてしまうとあたかもまともなことを言っているように聞こえるから不思議である。

昔の若者は、ものがないときに育ったがみんなきちんと生活していた。今の若者はものがあって恵まれているのだらしがないのが多い。

この意見、一見正当な主張のように見えるが本当は、ぜんぜん違う。

昔の若者は、しっかり働けないものは、死んでいただけである。

つまり、このように、時代背景が全く異なる話をする場合には、本来単純に比較してはいけないのだが、多くのケースではそうしてしまっている。

次、言ってみよう。

国民年金を払っていない若者が多い。私はしっかり払っている。だから、他の人も払える。

これも間違い。

国家という単位での話をしている場合は、マクロ(全体)の話をしているが、自分が国民年金を支払うこと(もしくは、支払えたこと)は、ミクロ(部分・個人的)な話は全く違う。

国家の全体像を見る場合には、マクロのデータのみを解析しなければいけないが、個別的事象を持ちだして、話の全体を歪曲してしまうことはたくさんある。

ところが、入試問題では、こういったパターンの文章はものすごく出てくる。

国家の問題について話をする。

個別の自分の話をする。体験の話をする。

その体験の時の克服した話をする。

その体験から、国家の問題に当てはめる。

それを結論とする。

道化師「こういう論法は非常に多いです。したがって、我々が国語で気をつけなければならないのは、この筆者の体験がどのようなものであったのかということを考えて、そこから導き出される結論を考えれば自ずと答えは出る。」

というわけで、本日の結論

世の中の現象は比べてはいけないものを比較し考察してしまうケースがある。

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