大学受験の国語について考えるということになるのですが、基本的なパターンの一つなんですが、これが入試問題に出るとどの受験生もかなり苦戦を強いられるパターンが一つだけあります。
それがこちら
「最初から最後まで何がいいたいかわからない。そして、そのことが何をいいたいのかを解説を見てもわからない。」です。
これを私は、「ダメな校長先生の朝礼の問題」とよんでいます。
校長先生の全てがそうというわけではありませんが、校長先生の朝礼では何をいいたいのかさっぱりわからないということがあるかもしれません。
これ、入試問題でも出されます。
そして、難しいことを言っているなぁと多くの人が思いますが、中身はさっぱりありません。
はっきりいいますが、これはきついです。
私が入試問題を解いても8割ぐらいの正答率しかありません。
そして、何よりもやっかいなのが、この問題の大半が、結論がないということです。
もう一度いいますが、結論がありません。
もう一度いいますが、結論がないんです。ない。国語の問題で、結論がない。
ということです。
おおよその傾向は、こういった問題のでてくる筆者のパターンはわかっています。
大体高学歴。大学院博士課程まで卒業している。
思想について大学で勉強している。
海外に行っている。もしくは海外に共鳴している。
大体、文系の大学の教授をやっている。
まぁ、こんなところですね。
そして、この人達の問題のパターンは、何を言っているのかがさっぱりわからない。ということになるのですが、
”誤解を恐れずにあえて大きな声で言うならば、この人達に言いたいことなんか何もない”
じゃあ、どうすりゃいいのかということになるわけですが、簡単に申し上げると、問題に書かれている内容がループされているなぁと思ったらほとんどのパターンがこれになります。
例題
最近の若者が非常に切れやすくなっているということは果たして本当なのだろうか、ここでは、若者ということを考える上において、そもそも若者とは何かということについて考えてみたい。
若者とは、そもそものところとして、その社会の構成する要因としてのアクターとしての若者という側面があり、社会を統治する側のいわいるガバメントにおけるところの若者という側面と、文化的情緒・及び暴力性を内包するであろう、社会においては比較的新しいという側面を有する若者というもので構成されているということがわかる。
では、そのばあい、若者がきれやすくするという社会的背景はどちらの要素からなっているのか、ということになるだが、私は、後者のほうを考える方々が、一般的であると考えるが、果たしてそうであるといえるのであろうかということである。
ガバメントにおける若者が、何であるのかということを考えた場合に、そのガバメントが、若者たちに期待するものと若者が自ら考えていることにおける写像が必ずしも一致していないことがわかると思われる。
このことからも、若者とガバメントにおけるガバナンスの不一致があげられる。
これは、コンセンサスが取れていないということにほかならないのではないだろうか?
このコンセンサスを解消させたうえで、若者及び、ガバメントとの双方におけるハーモニーを同一化させていくことによってのみこの問題を解決する方法はあると考えられる。
それでは、近年の若者のきれやすさということは一体何であろうか?
人にはきれるというのが、4段階に渡っていると考えられる。肉体的な痛みを伴う場合の怒り。精神的な痛みを伴う場合の痛み。自身の尊厳を傷つけられる痛み。そして、自分の大切な物を傷つけられた場合の痛みということになる。
このペインがどの分野に属するのかということに我々は重きを置かなければならないのだが、このペインがペイント感じる表層的な感覚としては、わかるけれども、深層的な意味においてのペインがなんなのかということまでは、理解をされていないように思う。
したがって、その深層的なペインがペイン足りえる何かということである。
いったい若者のキレやすさとはなんだろう?
こんな文章が来る場合があります。
こんな時は、”馬鹿だなこいつ”と思うと問題が解きやすくなります。
まぁ、実践的な問題の解き方は、松井塾で教えますが、これを指導するのが実は一番厄介。(半端な実力者では、なかなか解けないということになります。)
というわけで本日の結論
どうでもいいことを横文字や英語を使ってそれらしい言い回しをするとなにか難しいことを言っているような感じがするけれども、そういう話し方をする人や、そういう書き方をする人は、結局のところ何も言っていない。
以上。
道化師「英語や意味のわかりにくい言葉を多用する奴の言うことを信じるな!!!」