2016年8月15日月曜日

自分らしさという罠

どうもこんばんは、道化師です。

さて、本日は、倫理的な問題からピックアップしてみたいと思います。

それでは、みなさんが、最近、聞くこととして、自分らしさっていうのがあげられるのではないでしょうか?

「オリジナリティ」とか「他の人とは違う」とか「自分らしさ」とかいうことですね。

道化師「これ、非常にやっかいなことなんですが、自分らしさっていうのは、そんなに意識する必要性があるのでしょうか?」

道化師「自分らしさとか、オリジナリティが必要とされるのは、あくまでも基本を習得した後にやってくるものだと思います。」

道化師「例えば、まずは、与えられた仕事を完ぺきにこなす。一〇〇%こなす。圧倒的な努力を持って仕事をこなす。」

道化師「そうすることで、初めて自分にしか見えない何かが見えてくるはずです。」

そう、そして、この圧倒的な努力量によって自分にしか見えないモノが見えるようになってはじめて、オリジナリティや、独創性、自分らしさというのが生まれてくると思うんです。

ところが、多くの人は、やりもしない前から諦めて、自分らしさを追い求めようとするひとが多い気がするんですが、よく考えてください。

一生懸命仕事をしないで、自分らしさを探そうとしても・・・

その自分らしさって、仕事を一生懸命しないし、学びもしないし、努力もしないっていうダメな人っていうのが自分らしさだよねって言う事になるだけだと思うんですね。

だから、もし本当に、自分らしさやアイデンティティっていうのを追求したいのであれば、がむしゃらに努力するべきなんじゃないか、というような結論になる場合が多いでしょう。

これは、国語の読解問題でも変則的な問題で、一般的に良いものとされているものを否定するという論法です。

というわけで本日の結論。

「自分らしさを考える前に努力しよう。」

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