2015年10月3日土曜日

道化師の日本史(律令国家の成立1)


 どうもこんにちは道化師です。

 さて、本日は、いよいよ律令国家が出来上がるまでを見ていきたいと思います。

 まずトップバッターは蘇我氏の台頭ですが、それまでがさらにごちゃごちゃします。

 まず、大連の大伴金村が継体天皇を擁立します。

 これは、それまでの応神天皇の系統が途絶えてしまうことになるのですが、この大伴金村すぐに失脚してしまいます。

 527年筑紫国造磐井の乱によって、失脚してしまいます。筑紫国造磐井の乱の目的は、朝鮮半島の新羅と同盟関係を結んで、日本(大和政権)を潰してしまおうと言う前代未聞の事件を引き起こしてしまいます。

 そこで、大連だった、大伴金村は、その責任を取らされて、失脚してしまいます。

 そして、跡を継いだのが、物部氏ということになります。ここで、仏教という勢力が海外から入ってきます。この仏教の処遇をめぐって、物部一族と蘇我一族で争いが起こります。

 まず、初めの対立は、大連の物部尾輿と大臣の蘇我稲目の対立から始まります。この頃は、お互いに牽制程度で住んだのですが、子供の代になってこれが表面化します。

 大連の物部守屋と大臣の蘇我馬子の対立。ここで重要なことは、蘇我馬子が金庫を握ったことにあります。カネの出所をすべて抑えた、蘇我馬子が勝者となり、仏教が日本に積極的に入ってくるとともに、蘇我氏が完全に実権を握ります。

 そして、蘇我馬子は、崇峻天皇(すしゅんてんのう)を擁立しますが、気に入らなかったので、殺します。もう傍若無人ぶりですね。

 そして、蘇我馬子は天皇家で初めての女性天皇(注意女系天皇と女性天皇を一緒にしないようにしましょう。)推古天皇を擁立します。そして、ここで、推古天皇の摂政として、聖徳太子(厩戸王)(うまやとおう)を任命します。

 こうして、聖徳太子と蘇我馬子の2人3脚で、始めの頃は推移していきます。

 そこで、聖徳太子と蘇我馬子の政策に関しては、中学校の時にやったので覚えている人も多いと思いますが、冠位十二階という実力評価によって決まる出世システム。憲法十七条で役人の心構えを書いたもの。遣隋使として小野妹子を隋の煬帝におくりますね。

 ここで、隋の皇帝に喧嘩を売ります。

 「日出処の天子日没する処の天子にてがみする。元気ですか?」みたいな文章

 これに隋の煬帝はブチ切れたいが、問題がひとつ立ちふさがる。

 そう、隋はいま高句麗と交戦中高句麗という厄介な敵と倭が結託されるとかなりやっかい。しかたがないので、とりあえず、裴世清(はいせいせい)を日本に送り込んで、日本との友好関係を維持しようとする。まぁ、日本で初めて行った外交は、対等外交だったというわけですね。

 で、ここまでしか中学校の教材には書かれていないが、この後、もう一度遣隋使が送り込まれます。そこには、先ほどの小野妹子と高向玄理・旻・南淵請安という留学生や学問僧が派遣されます。彼らが、隋から持ち帰った資料で、日本の本格的な法律による支配が完成していきます。これが、律令国家の基本になっていきますので、ご注意ください。
 
 道化師「当時の遣隋使は、先ほど上げた4人ぐらいだけ覚えておけば大丈夫でしょう。この後すぐに隋は滅んでしまいますので・・・。次回は、蘇我蝦夷・蘇我入鹿あたりから文章を書いていきたいと思います。」

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