2016年3月21日月曜日

頭の痛くなる存在論の話(倫理ですよ。)


 どうもこんばんは、道化師です。

 ただいま、倫理の問題は、今ちょうど書いている最中ですが、はっきり言って腹がたちます。

 えーこんなこと塾の先生が言うことではないですが、倫理の勉強嫌いです。正直、大学受験で倫理の読解問題出さないでくれますかと言いたい今日このごろですが・・・がんばって書きます。

 さて、本日のお題はこちら、「存在論」ということになります。

 注意事項:えー、毎度のことになりますが、この文章を読むと頭がおかしくなるような気がしますが、正常です。

 存在論:存在についての学問である。えー正確には存在についての存在学である。

 道化師「はい、のっけから意味不明。」

 それではいきますよ。(私は、逝きかけましたwww)

 存在論についてまず、あるとはそもそもあらぬものということになる。しかしながら、現にあるということはあるが、実際には、実在空間における”ある”という現象と、実在していない空間における実在空間においての”ある”は、全く別の”ある”ということになる。

 前者の実在空間における”ある”は、”あるけれども無”であるということになるのに対して、後者の実在していない空間における実在空間においての”ある”は、厳然としてそこにあるということになるのだが、厳然としてそこにあるということを我々は、認識することができない。

 それでは、さらに実在空間における”ある”について考えていきたいとおもう。

 実在空間における、”ある”は常に変化があるという状況ということである。つまり、それは言い換えるなら、”変化がある”という状況はつまり”無”であるということが言える。具体的にわかりやすく言い換えるならば、”有”から”無”が生まれ、”無”から”有”が生まれるという現象が、実在空間では行われている。すなわち、実在空間においては有の空間だと認識してしまっていることが、すなわち、無であるということになる。わかりやすく例えるならば、”ある”という空間は、”無”の空間であるということが言える。

 一方、後者の実在していない実在空間では、当然のごとくなにも存在していない”無”であるということが言える。つまり、”なにも存在していない無”であるという空間が、たしかに”ある”のである。つまり、実在していない実在空間は、たしかに実在しているということにほかならない。そして、実在空間に存在している我々は、なにも存在していない無の空間が、何であるのかということを知らないということを知っているので、やはり”ある”空間だということである。

 さて、その状況で我々人間が、いかに生きるかということであるが、我々はこの実在空間に生きている。しかし、この空間では、「あるけれどもあらぬものでしかない世界にいる。」つまり、”ある”の世界では、”あらぬもの”にしか触れられないため、本当の”無”の世界すなわち”ある”世界の真実を見ようとするならば、人は哲学しなければならない。

 注意事項:哲学の説明:哲学をしようとして哲学することではなく、また、哲学をしないということでもない状態において哲学すること。また、哲学は教えられるものでもないし、また、哲学は考えることもできない。そして、哲学は、他人および他の物質から考察することはできないが、たしかにそこに哲学は存在している。

 道化師「たすけてーーーーー。誰かプラトンの本燃やしてくれーーー。」

 道化師「え、わかりにくいですか?そうでしょう。ただ一つだけほめてくれ。こんなわかりにくいプラトンの話を理解できるように紹介できるのはすごくないですか?」

 えープラトンくんの話は基本的に、こう考えるとわかりやすいです。

 まず、現実の世界これが、ダメな世界。

 そして、どこかにある世界。これをイデアの世界。(絶対普遍で理想的な世界。)

 このふたつを対比して、どうやって、イデアの世界に行くかというのが、プラトンの目標。

 道化師「絶対に絶対に絶対に絶対に真似しないでください。良い子でも悪い子でも真似しないでください。教育者は、誰も言わないので私が代わりに言います。プラトンの書物読み過ぎるとたぶん頭おかしくなります。私は、絶対に読みません。それをするならWiiをやってください。」

  
 さて、それでは先程の話を道化師がご説明します。

 まず、我々は、現実世界に住んでいます。現実世界は、常に変化をし、いずれは死んでしまうという無の形になってしまいます。これは、プラトンが言うところ理想の状態ではないので、無の世界です。

 無の世界(イデアの世界)は、存在していません。しかし、存在していないということを知っているので存在しています。(人を好きになるってのは目には見えないが、実際存在してるよねみたいな理論)しかし、我々は、これを認識できないよね。

 さて、そこで我々人間は、残念ながら、(無の世界)イデアの世界に住んでいないので、理想の世界の状況の世界には触れることができない。現実の世界のものをいくらかき集めても(金・権力・作品・地位)イデアの世界に行くことはできない。だから、我々は、ただただイデアの世界を想うのである。

 (道化師的)哲学する:哲学ってなんなんだろうねぇーー理想ってなんなんだろうねぇーーって考えながらただただ時間を浪費すること。

 哲学者の皆様ごめんなさい。

 道化師「要するに、哲学ってのは心の美しい人々が理想の世界について考えて今いる醜い世界を否定して、本当はもっと素晴らしい世界があるんだって思った人々のこと。」

 

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