2016年3月26日土曜日

倫理の問題シリーズ 私はなぜ私なのか?

どうもこんばんは、道化師です。

さて本日も、倫理とかいうアホみたいなものをアホみたいに考える人々によって迷惑をさせられている道化師からお送りいたします。

道化師「失礼しました。つい本音が出てしまいました。本当に倫理なんて問題を大学入試とかに出すのは反対ですが、出るので四の五の言っても仕方ないので、書いていきます。」

さて、本日のテーマは、こちら。

「私はなぜ私なのか?そして、他の誰かではない私は、私と他社を区別されねばならないのか、そしてそれはなぜなのか?」

道化師の答え「知らんwwwで終わりたいのですが、がんばります。本日も道化師へのご声援たまわりますことよろしくお願いします。」

注意事項:あくまでも倫理の問題として扱っているため、頭がおかしくなるような気持ちになる方がいらっしゃるかもしれませんが、正常です。あらかじめご了承ください。

まず、初めに私とはなんなのかについて考えてみたいと思う。私とは、あきらかに他の世界のすべてのものと切り離された世界に確かに存在している。

しかし、私は、他人を理解することができない。私は、”私とは異なる私”とは異なるということを認識しているが、その違いがなぜ生まれているのかということは理解できない。

私は、”私とは異なる私”とDNAの配列など能の構造などが違うということで、定義ができるかもしれない。しかし、それは、あくまでも科学の言うところであっての私の区別の方法の一種であって、私自身にとっての重要なことは、そんなことではない。

例えば、今ココに、DNAの配列が全く同じで、脳の構造体の構造が100%同じという人間をここにもう一人複製したとしよう。その場合のもう一人の私ができた場合は、私の私に対する独立性は失われるのだろうか?

答えは否である。今ココに完全に複製された私と私の二人が、いたとしても私にとって重要なのは、私であって、複製された方の私ではない。複製された私にとっても、大事なのはやはり、複製された私であって私ではないということになるため。私という重要性はなんらの普遍性を保ち続けているように見える。

しかし、これが、他人から見た場合の私の価値とはなんであろうか?私と複製された私の区別は全くつかないことになってしまう。この場合、重要なのは、私の持っている能力であり、特性であり、私という存在性そのものではないということに気がつかれるということになる。

その結果、私の存在価値を他人に依存するということは、そもそもおかしなことということになるわけである。

とするならば、私は、私自身において価値を見出さなければならないということになるが、そもそも、私自身の価値を私自身がはかれるのだろうかという問題がここで生じることとなる。”私”という存在は、本人が望むと望まないとにかかわらず、社会からの影響を受けていることになる。ファッション・思想・自然・食べ物ということになる。その段階において、社会及び他人に影響を受けることのない”私”はそもそも存在していないということになる。

つまり、私が、”私”の存在価値を確かめる方法がそもそも存在していないにもかかわらず、私はいかにして”私”の存在の確かさを確かめることができようか?

また、私は、”私”を作ることもできる。例えばこのブログに書いているような道化師という存在である。

これは、実際には存在していない人物が、松井健太という一人の人間によって新たに創りだされたものである。

しかし、ここで考えて欲しいのは、創りだされた私は私から独立して行動することができないにもかかわらず、このブログ上においては、厳然として、道化師として存在していることになる。芸能活動における役者がその事になるわけであることは言うまでもない。

ということは、役者として”創りだされた私”を創りだしたその瞬間から私がいなくなってしまうということも言えないだろうか?本来持っていたはずの、私は”創りだされた私”により、社会的にこういうキャラクターだと追認され、社会的に認められた時、ついには、私は死んでしまうということになる。しかしながら、生命としての私は存続しているので、決して私が終わっているわけではないが、私の価値はなくなってしまっている。

「私とはなんだろう?」

問題1:この文章中には”私”と記述している場所と私と記述している場所があるが、違いを答えなさい。(急いで書いているのでただ単に忘れているところもあります。)

問題2:この文章を読んで、”私”の価値がなくても私が必要な理由を考えなさい。

道化師:えーとそれでは、私から一言あるそうなのでどうぞ。

松井塾塾長「こういうどうでもいいことをどうでもよく考えてどうでもいい人達の心の感性が素晴らしいという風潮やめてくれね?こんなことばっかり考えてるからギリシャデフォルトすんだよーーー。」

というわけで、いつものように道化師の解説をお送りしていきます。

私という存在はなぜ存在するのか?他人とは別に自分の心ってのを持ってるよね。他人も自分の心を持ってるけどお互い完璧に理解し合えないよね。

科学的に言えば、DNAがひとりひとり違うよねってことだけど、DNAが全く同じクローンを作れば本体は死んでもいいのかって話だけど、嫌だよね?

だから、あくまでも大事なのは、本体にとっては、本体が大事だし、クローンにとってはクローンの事が大事だよね。だから、自分自身が大事だよね。

でも、他人にとっては、どうでもいいよね。見分けがつかないんだから。だから、自分の価値って自分で決めるしか無いよね。

でも、そもそも自分の価値は、自分の住んでいる社会に影響されているから、他人の価値観を全く含まない自分の価値ってありえないでしょう。だから厳密には、他人の価値観を全く含まない自分はありえないよね。

加えて、創られた自分役者なんかがそうだよね。
役者の人は特にそうだけど、役者をやっている姿しか興味が無いよね。その人が本当はどうとかには何の価値もないよね。て言うことは、役者として生を受けたら最後自分本来の価値はなくなったよね。でも、だからといって役者を演じている人そのものが死んでしまったら、役も死んでしまうよね。

私の存在価値ってなんなんだろう。

こんな感じ。「自分の価値は他人が決めるものじゃない自分で決めるものだけど、そもそも自分って何みたいな文章ですね。」





問題1の答え

”私”は、自分本人とは異なる第3者を第3者の立場で見ている時に使われている”私”。もしくは、他人が、自分を見た時に感じる他人視点での本人に使われている。他方、私は、自分自身が自分本来の姿を考察するときに対して使う場合に対して使っているのが私。

問題2の模範解答

大切なことは、”私””創られた私”もしくは私について考察するかということではなくて、それら全ての基本的な土台は私に収束するということにある。したがって、大事なことは私が存在することそのものを考察することではなく、私が何をなし何を残していくことができたのかということであると考えられる。

道化師「疲れました。それでは、鬱憤が溜まったところで松井塾塾長どうぞ。」

松井塾塾長「うだうだ考えていないで目の前の仕事を真剣に取り組め!!!!!!」

道化師「はい、というわけで松井塾長の考えるな。行動しろ。でお送りしました。www」

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