2016年3月20日日曜日

倫理の問題(不可知論)


 どうもこんばんは、道化師です。

 誰か代わりに、倫理の問題をやってほしいと思う今日このごろですが、さて本日のお題についてお話していきましょう。

 道化師「不可知論」を中心にやっていきます。

 注意:この文章は倫理系の読解問題を中心に書いていますので、頭がおかしくなるような気がしますが、そういう人は正常です。

 不可知論とは、物事の本質を認識することができないということを言っていること。つまり、物事を認識できないものを論ずることはできないのではないかという考え方ですが、変形種がたくさんあり非常にやっかいなそんざいです。

 まぁ、基本的なところからお話していきます。

 人間は、基本的に理性によって、物事の対象物の認識をするということをしようとします。しかし、理性というのは経験に裏打ちされた概念の一種であるため、経験に裏打ちされていない理性というのは存在しないということになります。

 したがって、我々が定義づけている事象の全ては、理性によって判断されているのであり、その理性の根源的源は経験によるものであると考えられます。

 したがって、経験の存在していない物事を本質的に理解することはできないということになります。

 つまり、本質的な理性の概念は、そもそも人間の経験できる限界を超えてしまっていることになる。

 人間の経験のできる限界を超えている理性を基本的に人間は理解することができないが、理性という概念を実際に人間は持ってしまっている。しかし、すべての人間が保有している時間・および・空間・法制度はそれぞれ異なるものであるので、それらすべてを内包した理性というものはこの世の中に存在しないということになる。

 存在していない理性は、誰も経験したことのない理性であるため、本質的な理性というものを人間は知ることはできないということになる。

 つまり、人間が認識できない理性について考えるということを経験による理性で考えるということがそもそもの矛盾であるという、前回のイデア論に対する反対意見ということになります。

 道化師:「え、いつもの様になに言っているのかわかりませんということですか?」

 それでは、道化師の不可知論ということで、お話していきましょう。

 そもそも、理性とは、やってはいけないことやっていいことのことです。

 やっていいのか悪いのかは、「お父さんやお母さんに怒られたりして」経験によって身につけます。

 しかし、我々が理想としている(理想的な理性を持った人間)は、そもそもこの世の中に存在しない。(悪いことは何もしないし、人に愛情溢れ、いかなる時もじっと耐えられるような立派な人)

 そんな人は、見たこともないし、聞いたこともない。

 つまり、経験できない(みたり、聞いたりできない。)

 見たり聞いたりしたこともない、理性や、理想をお前どうやってわかることができるの?

 馬鹿なの?

 ということです。

 道化師「えー松井先生は叫びたいそうです。」

 松井塾長「本当に倫理とか国語の読解に出さないでくれ」

 道化師「というわけで、不可知論ってのは、見たり聞いたりしたことねぇのはわかんねぇよ。」ということです。

このブログで読まれている記事