2016年4月20日水曜日

本当は怖い日本国憲法(本年度法学部入試は特に注意!)

どうもこんばんは、道化師です。

さて本日も、大学受験読解講座をやっていきたいのですが、参議院選挙で自由民主党が勝つ公算が非常に高いので、このまま行けば、日本国憲法の改正へと流れが行くのではないかと思われますが、法学部の入試を考えている人は、この日本国憲法がどういう問題点を抱えているのかということをきちんと理解していきましょう。

いつものごとく、道化師は、改憲派ですか護憲派ですか?という不毛な人々がいますが、どっちでもないです。変えたければ、変えればいいし、変えたくなければ変えなければいいんじゃない。そもそも憲法あってもなくても憲法無視する国なので、議論にならないんじゃないでしょうか?という人です。

それでは、本日は、社会権について見ていきましょう。

日本国憲法第二五条 生存権

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない。

という風にあるのですが、問題が一つあります。

この生存権をめぐる最高裁判所の判例が2つ存在するのですが、この二つの判例はなかなか衝撃的な事実を突きつけてきます。

「朝日訴訟」

生活保護基準があまりにも低すぎるために、最高裁判所の前に死亡してしまうという事件である。

生活保護が十分に受けられない状況であったが、それに対して、最高裁判所は国の生活保護基準は合憲であると一応判断したという訴訟

篠崎くん「一応ってどういうことですか?」

道化師「最高裁が始まる前に原告が死亡し、親族がそれを引き継いで裁判をしたけれでも、原告が死亡しているから、判決はできないが、一応判決理由を述べておくねということです。」

その時の判決が、かなりめんどくさい言い回しをしているので、本当に興味のある人は、判決文の全文を検索してもらうとわかりやすい。まぁ妥当な判断だと言われれば妥当だが、不当だと言われれば不当という状態ですね。当時の社会情勢がわからないのであえて言及は避けます。

道化師「わかりやすく書いているので事実とずれる場合があります。」

裁判所の見解「憲法第二五条で生存権を保障されているとはいえそれは、社会情勢および、国民全体の経済状況を総合的に鑑みなければならないことである。したがって、健康で文化的で最低限度の生活というのは数値化できないしたがって保護基準が妥当かどうかということについては、厚生大臣(当時)の裁量権の範囲内ということになるので、この問題は、政治問題として取り扱われることはあっても、ただちに違憲か合憲かを争う問題ではない。また、生活保護基準においては、低所得者層の割合およびそれと生活保護受給者との受け取り額と国民感情によって決められるものなので、すぐに断定することはできない。」

というような判決文になっております。

道化師「これでもわかりにくいので、もっとわかりやすく書くとこんな感じでしょうか?」

裁判所「健康で文化的で最低限度の生活の基準って数値で出してくれないと判決かけねぇし、そもそも、生活保護費は、低所得者よりももらうケースがでたりするから、世論と相談して決めてね。それは、国会の仕事でしょう。例えば、生活保護費用が月五〇〇円(今の価値で)とかわけのわからん法律ができたら裁判所は判断するけど、こんなグダグダな状況で判断できるかーー」

道化師「まぁ、こんなところでしょうね。」

篠崎くん「つまり、実際に数値化して、低所得者のこれくらいの額に属する場合これだけしんどい状況になるから、これぐらいの額までは国民全員に保障しますよということを憲法に書かないとダメだよねってことですね。」

道化師「そういうこと。裁判所っていうのは、具体的な数値や、罰則、その他こういう理由でこの金額を保障するというのでは判決が出せないんですよね。だから、きちんとした憲法を書く必要性があるよねってこと。現在の憲法では、生活保護を減額されても違法性は問えない。しかもこの判決に書かれているように、国民感情にも配慮しないといけないって書いてあるからね。」

篠崎くん「一番大事なセーフティーネットが一時的な国民感情にも左右されるのはまずくないですか?」

道化師「まずいよね。本当に困っている人が助からない可能性があるよね。」

篠崎くん「憲法に具体的数字を書くべきではないですか?」

道化師「だからーーーーそれを主張すると・・・・」

篠崎くん「あれですねWWW」

道化師「さて、それでは、憲法シリーズが続きます。次の話は、同じく社会権からのものになります。」

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