2015年9月8日火曜日

やっちまった聖徳太子隋との見えない戦い


 どうもこんにちは松井塾の松井です。

 以前お話した続きになりますが、覚えていますか?

 江戸川区ん「遣隋使の小野妹子が隋の皇帝にけんかうった手紙を渡して隋の皇帝ブチ切れでしたよね」

 松井塾塾長「そうだったね。」

 それでは、実際にどうなっていくのかを見ていきましょう。

 小野妹子「やばいっす聖徳太子マジパネェっすマジありえないっす。」

 聖徳太子「おい、妹子渡したのかよ。」

 小野妹子「マジブチ切れっす隋の皇帝切れまくりっす。」

といったかどうかは、知りませんが、中国が日本を訪れることになります。

 小野妹子「聖徳太子さーん隋がこっちにきます。なんでも日本の実力を見るとかなんとか?」

 聖徳太子「それは、願ったり叶ったり、我が日本国の実力を見せつけてくれん。」

 松井塾塾長「そうここで重要になってくることがなぜ、聖徳太子が日本に初めて仏教を取り入れたのかということと何のために法隆寺を建立したのかということが大切になってきます。」

 聖徳太子は、なぜ仏教をとりいれたのか、そして法隆寺を建立する必要性が何故あったのか?これが非常に大事になってきます。

 当時の世界は隋、基本的に高校受験での社会は、基本中国と朝鮮半島この2カ国しかありません。隋の動向が世界の全てといってもいいでしょう。

 そこで、世界最古の木造建築物法隆寺は、なぜ建てられたのか?

 それは、当時の国際ルールが仏教だったから。

 従って、その国際ルールからはみ出さないためにも仏教を日本も建てられるんだぞということを内外に示しておかなければならない。だから法隆寺を作ったんだね。

 江戸川区ん「それで隋の視察はどうなったの?」

 松井塾塾長「特に何事もなく無事に終わり、隋は日本のことをかなり文化水準の高い国と認識して、帰っていったそうだよ。」

 江戸川区ん「いやぁ初めから危ない戦いになっていましたね。」

 それでは今日のポイントをおさらい。

 1,なぜ、聖徳太子は仏教をとりいれたのか?

 それは国際ルールとして仏教が当たり前になっていたから。

 2,なぜ世界最古の木造建築物 法隆寺を建てたのか。

 日本すごいだろアピールを内外に示しておく必要性があったから。

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